
2025年9月3日
この判例で、最も静かに衝撃を与えるのは、
「国民が、国家と争っている」という構図かもしれない。
助手席に座っていただけの青年が命を奪われた。
その両親は、国と県を相手に裁判を起こした。
それは、泣き寝入りを拒んだ「選択」だった。
そして、制度の中で“道を開く”という、静かな革命だった。
でも──その選択の先にあったのは、
「守ってくれるはずの国家が、責任を否定する」という現実だった。
国は言った。
「落石は防ぎきれない。予算も限られている。自分たちに過失はない。」
その言葉は、制度の冷たさを象徴していた。
そして、国民が“敵”として扱われる瞬間だった。
私たちは、国家に守られていると思っている。
でも、制度の中では、国家は「責任を回避する主体」でもある。
この判例は、そんな“信頼と対立の境界線”を静かに浮かび上がらせる。
国家は、常に味方とは限らない。
制度は、常に守ってくれるとは限らない。
だからこそ、原告の「選択」は意味を持つ。
裁判を起こすという行為は、制度の中で声を上げること。
そして、制度の“正義”を引き出すこと。
この判例では、裁判所がその声に応えた。
「過失がなくても、安全性が足りなければ責任を負うべきだ」と。
それは、制度の中にある“静かな正義”だった。
でも、その正義は、選択しなければ現れなかった。
あなたが何も悪くないのに、国家と争うことになったら──
それでも、声を上げる「選択」ができるだろうか?
次回は、「制度の冷たさと、心の備え」へ。
制度が感情を持たないからこそ、私たちがどう備えるか──その視点を探っていきます。