


【落石事故 – 第5回】それでも、制度を使いこなす──選ぶ力は、あなたの中にある

【落石事故 – 第4回】制度の冷たさと、心の備え──守られる前に、備えるという選択

判決文の中に、こんな一文がある。
「防護柵を設置するとした場合、その費用の額が相当の多額にのぼり、上告人県としてその予算措置に困却するであろうことは推察できるが、それにより直ちに…賠償責任を免れうるものと考えることはできない。」
つまり、県は「予算が足りないから、落石対策はできなかった」と言っている。
裁判所はそれを「理解はできるが、責任は免れない」と判断した。
ここには、制度の“冷静さ”と“限界”が同時に現れている。
国や自治体には、限られた予算がある。
その中で、どこにどれだけ安全対策を施すか──それは、現場の判断に委ねられている。
でも、命は予算で測れるものではない。
たとえ防護柵の設置に多額の費用がかかっても、それが一人の命を守るものであれば、
「できなかった」では済まされない。
この判例は、そんな“制度の天秤”を静かに問いかけてくる。
予算と命。
現実と理想。
制度と感情。
私たちは、制度に守られていると思っている。
でも、制度は「予算の都合」で命の価値を後回しにすることもある。
そして、国や自治体は「できなかった」と言いながら、
その“できなさ”を理由に、責任を回避しようとすることもある。
この判例は、それを許さなかった。
「予算が足りないから仕方ない」とは言わせなかった。
それは、制度の中にある“静かな正義”だった。
でも──その正義が、いつも発動されるとは限らない。
裁判を起こさなければ、誰も責任を問わなかったかもしれない。
声を上げなければ、竹竿と赤い布のままだったかもしれない。
あなたの命が、予算の都合で守られないとしたら──
それでも、制度にすべてを委ねられるだろうか?
次回は、「国民 vs 国家──なぜ守るはずの相手と争うのか」へ。
制度の中で、国民が“敵”として扱われる構造を見つめながら、信頼と対立の境界線を探っていきます。