


【落石事故 – 第5回】それでも、制度を使いこなす──選ぶ力は、あなたの中にある

【落石事故 – 第4回】制度の冷たさと、心の備え──守られる前に、備えるという選択

昭和38年6月13日。
高知県の山間部、国道56号線。
幅員約6メートルの砂利道を、貨物自動車が走っていた。
その助手席に座っていた青年は、突然、命を奪われた。
山側の崖から、直径1メートル、重さ約400キログラムの岩が落ちてきたのだ。
斜距離77メートル──それは、誰もが「まさか」と思う距離だった。
事故のあと、青年の両親は国と県を相手に訴訟を起こした。
根拠は、国家賠償法第2条第1項と第3条第1項。
「営造物の設置または管理に瑕疵があった場合、国や自治体は損害を賠償しなければならない」という条文だ。
国と県はこう主張した。
「落石の危険がある場所は全国にある。完全な防止は不可能だ。」
でも、裁判所はこう判断した。
「この道路は、通行の安全性を欠いていた。
竹竿に赤い布をつけただけでは、注意喚起とは言えない。
防護柵も、金網も、落石除去も、通行止めも──何もされていなかった。」
そして、こう続けた。
「国家賠償法における“瑕疵”とは、営造物が通常有すべき安全性を欠いていることをいう。
その責任に、過失の有無は問わない。」
つまり、国や自治体が「悪意はなかった」「予算が足りなかった」と言っても、
安全性が足りなければ、責任を負うべきだということ。
この判例が教えてくれるのは、制度の冷たさではない。
むしろ、「制度の中に、静かに人を守る思想がある」ということだ。
ただし──その思想が、現場で実行されるとは限らない。
竹竿に赤い布。それが、現場の“限界”だった。
私たちは、制度に守られていると思っている。
でも、制度は使われ方次第で、守るものにも、争う相手にもなる。
この判例は、そんな“制度の使い方”を静かに問いかけてくる。
あなたの通る道に、竹竿と赤い布しかなかったら──
それでも、守られていると言えるだろうか?
次回は、「予算と命の天秤」について考えます。
国が「予算措置に困却する」と主張したことは、責任逃れなのか、それとも制度の限界なのか。
命の価値と制度の現実、その間にある“静かな葛藤”を見つめていきます。