正しさは、誰かが決めるものじゃない。あなたが選んだ、それが答え。

「あいつ車返さねーけど、警察に言うのだるっ」──それ、責任ないってマジ?【第4回】(制度の予測可能性)

あなたの“選択の日”のために

前回では、裁判所は警察届出の「不在」「欺罔」「制御不能」という抽象ロジックにすり替え、制度の予測可能性を守るために、問の誠実さが切り捨てられた可能性について述べました。これについての私の仮説を展開していくのがこの頁です。

ここから私の仮説を2段階で考えていきます。

まず、1段階目としていえるのは、裁判所は、Yを運行供用者責任から切り離したかったから上記の抽象ロジックにすり替えを行ったということです。

なぜ、Yを運行供用者責任から切り離したかったのでしょうか?

以下4点があげられるかと考えます。

Yを運行供用者責任から切り離したかった理由

法的安定性の確保

  • 自賠法3条の「運行供用者」概念が広がりすぎると、責任の範囲が不明確になり、制度の予測可能性(前頁で説明済み)が損なわれる
  • 特に「知人に貸したが返してくれない」事例で責任を認めると、所有者が過度に広範な監視義務を負うことになる
  • 控訴審は「欺罔による貸与」という枠組みを使うことで、責任の限界線を引き直したかった可能性がある。

判例の整合性と抽象化傾向

  • 昭和50年代以降の判例では、「運行支配」の抽象化が進みつつも、盗難・欺罔・無断使用による支配喪失には責任否定が定着している。
  • 控訴審はこの流れに沿って、「だまし取られたも同然」という評価を使い、抽象的支配の限界を示したかった

加害者との関係性の断絶

  • AはYの知人であるが、事故時点では「Yの意思に反する運行」とされている。
  • この「意思に反する」という評価は、加害者との関係性を切り離すための論理装置
  • 控訴審は、YとAの関係性を「支配関係」ではなく「欺罔による断絶」として再構成した。

制度的責任の限界設定

  • 自賠法の目的は「被害者救済」だが、同時に「制度的責任の限界」を守る必要がある。
  • 控訴審は、Yのような「不良仲間との曖昧な関係性」にまで責任を広げることに制度的リスクを感じた可能性がある。

このように、控訴審は個別の事実評価よりも、制度全体の均衡と予測可能性を優先したのはなぜだったのでしょうか?

それは、制度の骨格を守るために、誠実さを“構造的に切り捨てる”必要があったからかもしれません。

制度の予測可能性を守るという裁判所の役割

高裁や最高裁は、単に事実を評価するだけでなく、法体系の整合性と制度の安定性を担保する役割を持っています。
そのため、以下のようなバランスを常に意識しています:

観点地裁・原審高裁・控訴審
重視するもの個別具体的な事実と行動法的枠組みの整合性と制度の限界
被害者救済積極的に評価制度的責任の限界を意識
運行支配の評価実質的・行動ベース抽象的・状態ベース(欺罔・断絶)
判例との整合性柔軟に解釈過去の判例との一貫性を重視

このように、控訴審は「この事例で責任を認めてしまうと、今後どこまで責任が広がるか分からない」という制度的リスクを感じていた可能性があります。

今回については、本記事のタイトルにもあるように、制度の予測可能性を守るために、警察届け出の怠慢は免責されていいのでしょうか?

これは、いいかえると、

裁判は本来「個別具体的な事実に誠実に向き合う場」であるはずなのに、控訴審は制度の均衡を守るために、その誠実さを犠牲にした
そしてその結果、人間が社会生活の中で果たすべき責任が、法的構造の中で免責されてしまった

といえる。

人間が社会生活の中で果たすべき責任を免責してまで、裁判所が守りたかったものは何か?

制度の予測可能性の“さらに奥”に、別の構造的な答えが眠っている──

それが、私の仮説の第2段階です。続きは次頁に譲ることとします。

保険の話ばかりじゃ疲れますよね。かつて猫と暮らし、2.7万人と語り合った日々もありました。よかったら、そちらものぞいてみてください。

律空
この記事を書いた人
保険業界での経験を活かしながら、現在は別業界の会社員として働いています。 守秘義務を大切にしつつ、あなたにとって本当に役立つ情報を、ゆっくりと丁寧に届けていきます。

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