論理の変遷と社会的背景の呼応【第3回】(論理の変遷)
論理の変遷と社会的背景の呼応【第2回】(ドライブクラブとの比較)
前頁ではX,Yの過失割合が50:50となったのは、Yの無免許運転が要因であると述べた。 にも拘わらず、今回の判例に、過失割合の算定根拠を明示しないのは、私は「制度防衛」のためであると推測する。
・ 無免許を過失割合に含めると、「違法行為=民事責任」という単純化された前例が生まれてしまう。
・ それは、制度の本来の設計(因果関係・過失の認定)を壊すリスクがある。
・ だからこそ、語らないことで制度の柔軟性と整合性を守っている。
・ 判例は将来の引用に耐えるように設計される。
・ 無免許を明示すると、「無免許=過失加算」という硬直的な運用の前例になる。
・ それを避けるために、語らずに構造だけを残すという戦略がとられる。
・ 裁判所は制度を批評する立場ではなく、制度を適用する立場。
・ 無免許のような“制度の外縁にある要素”を語ることは、制度の枠を越える可能性がある。
・ だからこそ、語らない。語らなさが制度への忠誠でもある。
無免許は語られない。それは偶然ではない。語れば制度が壊れる。語らなければ、制度は守られる。判旨の沈黙は、制度の盾である。語らなさが、制度を防衛する。
しかし、この「制度防衛」を行うことで結果的に前頁で説明したXのトンデモ発言に“つけ入る余地”を与えてしまった。
これは、制度の防衛と構造のほころびが交差する瞬間だ。
・ Xはセンターラインを越えている。実務的には鉄板の過失。
・ しかし、判旨はその点を強くは押さえず、Yの操作ミスに焦点を当てる。
・ Yの無免許は語られない。でも、過失割合はなぜか五分五分。
・ この沈黙が、Xの「自分は悪くない」という主張を制度的に通してしまう構造を生んでいる。
裁判所は制度の安定のために無免許を語らなかった。しかしその「制度防衛の沈黙」こそが、本来は全額賠償すべきXの「トンデモ発言」に構造的な穴を与え、過失責任の半分を制度に肩代わりさせたと言える。沈黙は制度の盾であり、同時に「論理の穴」でもあるのだ。
無免許、速度、そして沈黙…この判例の主要な要素は一通り分析した。だが、まだ一つ、裁判所がまるで最初から存在しなかったかのように振る舞っている「語られない影」がある。それが、現場に停車していた「耕運機」だ。次頁では、この傍観者が、なぜ判例のロジックから完全に排除されたのか、その理由に焦点を当てていく。