正しさは、誰かが決めるものじゃない。あなたが選んだ、それが答え。

「あいつ車返さねーけど、警察に言うのだるっ」──それ、責任ないってマジ?【第5回】(思考停止)

あなたの“選択の日”のために

前回では、人間が社会生活の中で果たすべき責任が、法的構造の中で免責された可能性について述べました。

そして、制度の予測可能性の“さらに奥”に別の構造的な答えが眠っていると説明しました。

実はこれが、今回のシリーズの一番述べたかった点となります。

では、その奥に足を踏み入れていきます。

まず、法曹関係者は「覚えること」に精いっぱいで、「自分で考えること」が後回しになっているのではないか──という点です。

法曹界における「空気読み」と「思考停止」

1. 「覚えること」と「制度の安定」

  • 判例主義の圧力: 日本は判例を重視する慣習が強く、新しい事案も既存の判例の枠組みに当てはめて解決しようとします。これは「覚えること」、つまり過去の判断の「枠」を把握することを最優先にします。
  • 予測可能性の確保: 判例の論理をなぞることは、法的な予測可能性を高めます。しかし、この予測可能性の確保は、「個別の事例における倫理的な不自然さ」「沈黙」によって覆い隠す代償を伴います。

2. 「空気を読む」=「制度の論理を疑わない」

  • 制度の信頼性への忠誠: 裁判官や弁護士は、その専門家としての地位を、「制度の枠組みの中で正しく機能する」ことによって得ています。制度の論理(例:今回の「欺罔」抽象ロジック)を根本から疑うことは、自身の専門性や立脚点を揺るがしかねないため、無意識のうちに避ける傾向があります。
  • 実務効率の重視: 膨大な訴訟件数を処理するため、彼らは「論理の効率性」を重視します。最高裁が出した「欺罔だから責任なし」という抽象的な処理は、個別の事情(警察に届けなかった理由)を深掘りする手間を省き、実務の効率を高めます。結果的に、「問いの空白」を見て見ぬふりをする、という空気が共有されます。

裁判所は「欺罔されたから責任なし」と言う。

でもその結論には、「なぜ届けなかったのか?」という問いがない。

制度の正しさを守るために、誠実さが切り捨てられている。

それは、「正しさの名のもとに、愛が見えなくなる構造」ともいえるかもしれない。

制度的忠誠と倫理的な愛の対立

法曹関係者が示す「制度の信頼性への忠誠」は、実は「自分の生活を守る」という自己防衛本能に基づいているのかもしれません。

  1. 制度の安定仕事の安定
  2. 制度の論理を疑わない自分の専門性の立脚点を守る

この構造は、個人の安心と引き換えに「問いの誠実さ」を犠牲にします。これは、愛に根ざした本当の真実や正義よりも、自己の立場や組織の安定が優先される瞬間ではないでしょうか。

これは、「公的な大義名分(予測可能性)」の裏に、「個人的な生活の安定(自己防衛)」という人間的な動機が隠されている。

制度の正しさを守ることで、誠実さが切り捨てられる。
その背後には、「自分の生活を守るための忠誠」が静かに横たわっている。
裁判所は、制度の予測可能性を守った。
でもその瞬間、問いの誠実さは、誰にも拾われないまま沈黙した。
私たちは、この沈黙をどう受け止めるべきなのだろうか──

保険の話ばかりじゃ疲れますよね。かつて猫と暮らし、2.7万人と語り合った日々もありました。よかったら、そちらものぞいてみてください。

律空
この記事を書いた人
保険業界での経験を活かしながら、現在は別業界の会社員として働いています。 守秘義務を大切にしつつ、あなたにとって本当に役立つ情報を、ゆっくりと丁寧に届けていきます。

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