2025年11月24日
前回では、人間が社会生活の中で果たすべき責任が、法的構造の中で免責された可能性について述べました。
そして、制度の予測可能性の“さらに奥”に別の構造的な答えが眠っていると説明しました。
実はこれが、今回のシリーズの一番述べたかった点となります。
では、その奥に足を踏み入れていきます。
まず、法曹関係者は「覚えること」に精いっぱいで、「自分で考えること」が後回しになっているのではないか──という点です。
裁判所は「欺罔されたから責任なし」と言う。
でもその結論には、「なぜ届けなかったのか?」という問いがない。
制度の正しさを守るために、誠実さが切り捨てられている。
それは、「正しさの名のもとに、愛が見えなくなる構造」ともいえるかもしれない。
法曹関係者が示す「制度の信頼性への忠誠」は、実は「自分の生活を守る」という自己防衛本能に基づいているのかもしれません。
この構造は、個人の安心と引き換えに「問いの誠実さ」を犠牲にします。これは、愛に根ざした本当の真実や正義よりも、自己の立場や組織の安定が優先される瞬間ではないでしょうか。
これは、「公的な大義名分(予測可能性)」の裏に、「個人的な生活の安定(自己防衛)」という人間的な動機が隠されている。
制度の正しさを守ることで、誠実さが切り捨てられる。
その背後には、「自分の生活を守るための忠誠」が静かに横たわっている。
裁判所は、制度の予測可能性を守った。
でもその瞬間、問いの誠実さは、誰にも拾われないまま沈黙した。
私たちは、この沈黙をどう受け止めるべきなのだろうか──