正しさは、誰かが決めるものじゃない。あなたが選んだ、それが答え。

無免許が判例を動かす【第4回】:複雑の裏にある単純(耕運機の沈黙)

あなたの“選択の日”のために

今回の判例については、Xも悪い(センターラインオーバー)、Yも悪い(無免許)となっており、痛み分けの状況となっているが、私は一番悪いのはカーブで見通しが悪くなっているところに停車している耕運機が一番悪いんじゃないかと考えている。しかし、耕運機の過失は一切とられないのである。これはいかなる理由なのか、法的根拠を紐解いていく。

今回、耕運機の沈黙に寄与しているのは、裁判所に処分権主義が発動しているためであろう。

処分権主義と裁判所の語らなさ

1. 処分権主義とは?

・ 民事訴訟においては、当事者が主張した事実と請求の範囲に裁判所は拘束されるという原則。

・ 裁判所は、当事者が主張していない事実や論点には原則として触れない。

・ つまり、耕運機の過失が争点として明確に提出されていなければ、裁判所はその点を判断しない。

2. 本件におけるYの主張

・ Yは「Xが耕運機を避けてセンターラインを越えた」とは主張している。

・ しかし、「耕運機の設置位置が危険だった」「耕運機の所有者に過失がある」といった第三者の過失責任の主張はしていない

・ よって、裁判所は「耕運機の存在を事故の背景として認定」するにとどまり、過失の有無には踏み込まなかった。

3. 裁判所の沈黙は“制度的自制”でもある

・ 裁判所が耕運機の過失に触れれば、第三者責任の認定という新たな論点を導入することになる。

・ それは処分権主義に反するだけでなく、訴訟構造を複雑化させるリスクもある。

・ だからこそ、語らない。語らなさが制度の枠を守る。

語られない耕運機

耕運機はそこにあった。だが、語られなかった。Yは主張しなかった。裁判所は処分権主義に従い、語らなかった。語れば、第三者責任が生まれる。語らなければ、制度は守られる。語られないことが、構造を支える。

耕運機は、事故原因の一つとして現場にあり続けた。しかし、処分権主義の原則と当事者の主張の戦略によって、その過失は司法の光を浴びることはなかった。もしYが適切な弁護戦略をとっていたなら、耕運機の責任を問い、自身の賠償額を減らせたかもしれない。この沈黙は、訴訟における「主張」の重さを物語っている。

「至高の選択」サイトとしての結論:制度の欠陥ではない、倫理的な「ずれ」の肯定

そして、この判例が本来もっていた表向きのテーマ「刑事と民事の差異」について、当サイトでも言及すべきであろう。

判旨の語り口(制度的定型)

「刑事事件において無罪の判決が確定したからといって、民事事件においてYに過失ありとする判断が妨げられるものでないことは言うまでもない。」

→ これは、証明度の違い(合理的疑い「疑わしきは罰せず」 vs.過失の推定「Yの無免許」)を根拠に、刑事と民事の判断が食い違ってもよいという制度的説明。

「至高の選択」サイトとしての結論

刑民の差異は“ずれ”として肯定されるべき

刑事と民事の差異は、制度の不整合ではない。むしろ、責任を逃さないための“ずれ”として肯定されるべきである。

刑事は国家による制裁、民事は損害の公平な分担。目的が違えば、証明の閾値も違う。だからこそ、同じ事案でも結論が異なることは、制度の欠陥ではなく、制度の倫理的余白である。

無免許のYが刑事で無罪となっても、民事で有責とされるのは、制度が“ずれ”によって責任をすくい上げているからだ。

そろえることが正義ではない。そろえることでこぼれ落ちる責任があるなら、むしろ“ずれ”を肯定すべきだ。

「無免許が判例を動かす」シリーズ全4回を通して、私たちは、制度を防衛するための裁判所の「沈黙」が、いかに過失割合の「50:50」という数字を作り上げ、「耕運機」という単純な事実を排除したかを見てきた。判例は、法理論だけでなく、倫理的、そして戦略的な「語り」によって構築されている。あなたの保険契約の裏側にある制度の意志を、常に疑い、問い続けることが、至高の選択への道である。

保険の話ばかりじゃ疲れますよね。かつて猫と暮らし、2.7万人と語り合った日々もありました。よかったら、そちらものぞいてみてください。

律空
この記事を書いた人
保険業界での経験を活かしながら、現在は別業界の会社員として働いています。 守秘義務を大切にしつつ、あなたにとって本当に役立つ情報を、ゆっくりと丁寧に届けていきます。

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