論理の変遷と社会的背景の呼応【第3回】(論理の変遷)
論理の変遷と社会的背景の呼応【第2回】(ドライブクラブとの比較)
血中アルコール濃度0.98mg/mlという数値が、なぜ“かなり酩酊”と断定されたのか。
本記事で一番お伝えしたい結論に迫っていく。
その言語的選択がなければ、重大な過失の物語は成立しなかったかもしれない。
最初に述べると、裁判所が「かなり酩酊」と言い切ったのは、保険免責条項の適用を確実にするため、“重大な過失”の物語を強固に構築する必要があったからである。酩酊の評価は、医学的状態ではなく制度的結論を支える言語的支柱であった。
以下、細かく見ていく。
以下の3つの構造的理由があると考えられる。
・ 本件の争点は「被共済者の重大な過失による災害か否か」。
・ 保険約款では「故意または重大な過失」による災害は免責。
→ 「重大な過失」の認定が判決の結論を左右する。
→ そのため、酩酊状態を「かなり」と断定することで、注意義務違反の程度を最大化。
・ 昭和50年代は交通事故死者数が年間1万人を超える時代。
・ 飲酒運転への社会的非難が高まり、道路交通法も厳罰化の流れ。
→ 判例は「制度の語り部」として、社会的規範を補強する役割を担う。
→ 「かなり酩酊」という語りは、社会的非難の対象としての飲酒運転を強調する装置。
・ 共済者が「酒酔い運転でも給付する」となれば、制度の信義が揺らぐ。
→ 判例は「公序良俗」「共済団体への信義」を強調。
→ 「かなり酩酊」とすることで、給付拒否が制度的に正当であると語れる。
では、血中アルコール濃度0.98mg/mlという数値は、医学的にどのように評価されるのか?
そして、判例はなぜその評価を“かなり酩酊”と語ったのか?
・ 血中アルコール濃度0.98mg/mlは、医学的には「酩酊初期」レベル。
・ しかし判例は「かなり酩酊」と断定。
→ 医学的基準よりも、制度的語りの必要性が優先された。
→ 「かなり酩酊」は、“重大な過失”という語りの土台。
オセロは、多くの方が一度は遊んだことがあるかと思う。このゲームでは、角を取れるかどうかが勝敗を左右する。
この判例における“角”とは、まさに「0.98mg/ml」」という数値だった。
角が黒にできれば、「0.98mg/ml」は重大な過失として評価され、ボード全体を黒にする。角が白にできれば、「0.98mg/ml」は重大な過失とはならず、共済金の支払いが行われる。
このオセロをイメージして、次の表を参照していただきたい。
| 要素 | 判例の語り | ひっくり返る可能性 |
| 血中アルコール濃度 | 0.98mg/ml → かなり酩酊 | 医学的には酩酊初期。評価が揺らげば”軽酔”扱いも可能。 |
| 運転態様 | 漫然運転・70km超過 | 実際には「多少の速度超過」「前方不注意」程度かも。 |
| 駐車車両 | レッカー車(業務車両) | クレーン車なら「なぜそこに?」という疑問が生まれる。 |
| 結論 | 極めて悪質重大な法令違反 → 重大な過失 | 酩酊評価が崩れれば、他の要素も”軽過失”に見える。 |
→「かなり酩酊」という言語が、他の要素の評価を”黒に染めている”構造。
つまり、裁判所は「0.98mg/ml」を“かなり酩酊”と断定することで、オセロの起点を黒に固定した。
その結果、他の要素も黒く染まり、制度的結論(免責)が成立する。
判例は、酩酊を語ったのではない。制度を染めるために、酩酊という言葉を選んだのだ。
「血中アルコール濃度0.98mg/ml──この数値が“かなり酩酊”とされたとき、判例は制度の語り部となった。」
この一文から始まった問いは、判例の語り方、制度の構造、そして沈黙の技法へと広がっていった。
判例は、事実を語っているようでいて、制度を守るために語り方を選んでいる。
「かなり酩酊」という言葉は、医学的根拠よりも、制度的結論を支えるための言語的支柱だった。
そしてその語りが、他の要素──速度、注視義務、駐車車両──すべてを染め上げていく。
まるでオセロの起点のように。
語られなかったクレーン車の駐車状況。
揺れ動く「クレーン車」と「レッカー車」の呼称。
それらは、制度の純度を守るために、意図的に沈黙された可能性がある。
判例は語る。だが、語り方を選ぶ。
そしてその選択は、制度の結論を支えるための技法であり、沈黙の構造でもある。
本シリーズはここで一区切りとするが、問いは終わらない。
語られたものの奥に、語られなかったものがある限り──問いは続いていく。