


【もらい事故の孤独:保険会社が沈黙する理由】

前項で、損害保険会社が行っていた「ちりつも合法化戦略」により、日弁連は損害保険会社の要求を丸飲みせざるを得なかったと述べた。
では、この私が作った造語ではあるが、「ちりつも合法化戦略」とはどういったものなのか?
保険会社の「ちりつも合法化戦略」──その構造
1973年覚書を取り交わす以前から、自動車事故が多発しており、保険会社による示談交渉が社会的ニーズとして顕在化していた。そのため、損害保険会社は、小さな示談交渉であれば、弁護士でなくても黙認されるであろうとして小さな違反を繰り返していた。
・ 「契約者のためにちょっと交渉するだけです」
・ 「弁護士法違反かもしれないけど、実務上は問題にならない」
こういった言葉で、契約者を説得し、小さな事例を積み重ねて社会的習慣として定着させる。
こうした小さな事例が、ちりも積もって山となり、示談代行が当たり前になれば、制度のほうが「現実に合わせて調整せざるを得なくなり、日弁連も「黙認してるだけでは面目が立たない」として、覚書という“制度の顔”を作ることとなったものと考えられる。
覚書で、明確に合法化された瞬間、保険会社は「これで正式に認められた」として、制度の中での地位を確立に至った。制度は、現実に押し込まれて形を変えた。それは、ずるさかもしれない。だが、制度の外側から制度を作るという意味では、賢さでもある。
これは、制度の“正義”と“戦略”がぶつかる場所ともいえる。
制度の副産物──置き去りにされた契約者
こうして制度の中に「示談代行」が正式に位置づけられた瞬間、保険会社は胸を張って交渉の前面に立つようになった。だがその裏で、落ち度のない契約者が置き去りにされるという副産物も生まれていた。
たとえば、過失がゼロに近い契約者が、保険会社の示談方針によって「謝罪的な文言」を含む示談書に巻き込まれたり、交渉の場から排除されることで「当事者性」を失ったりする。制度が整えば整うほど、契約者の感情や名誉は“処理効率”の名のもとに後回しにされていく。
この「過失割合」シリーズ最初に述べた、契約者が過失ゼロの場合、保険会社は何もしないといったことも然りだ。
制度は、正義を語る。だがその正義は、誰かの静かな不利益の上に成立していることもある。
「ちりつも合法化戦略」は、確かに賢い。だがその賢さが生んだ制度の冷たさに、私たちはどこまで気づいているだろうか。
制度は、誰のために整えられたのか──その問いだけが、今も制度の外に置かれている。